桜が満開である。
だから桜が見たい。
その旨を伝えると、昨日の土曜日、外出した際に「もう桜は満喫した」と言って家人たちは私の誘いをけんもほろろ断ってきた。
なんだと、私は昨日仕事だったんだぞ。
しかたなく、大雨が止んだころ、一人淋しく近くの公園へ桜を見物に行った。
公園は住宅街の中にあるにも関わらず、規模も大きく、様々な木がうっそうと茂っていた。
大雨の後だから、人は少ない。
いくつかの遊具には小学生がうれしそうに遊び、隣の芝生には親子がボール遊びに興じていて、お年寄りたちがベンチに座っておしゃべりをしている。
この公園のど真ん中に、「私はここの主だぞ」と言わんばかりに、とても大きな桜の木が1本、なぜか植わっているのだ。
のびやかに大きく天に向かって枝を伸ばしているその桜の木は、美しい薄いピンク色の化粧を誇らしげに纏って鎮座していた。
薄曇りだったのが残念だったが、あまりに見事に咲いていて、思わずスマホに何枚か、画像を納めた。
静かで穏やかな日曜日の公園。幸せな風景を味わいたくて、私はベンチに座って桜の木をあきもせずぼんやりと眺めた。
何羽かの鳥がひっきりなしに飛び回ってさえずっていた。風が吹いてもまだ花びらは散らない。
小学生も、子供連れも、遅れてやってきたお年寄りたちも、全く別々の行動をしているのに、桜の木の下を通るたび、同じように桜を見上げる。
1本しかないのにその桜の木はそばに寄ればおもわず人の目を惹きつけてしまうほどの見事な咲っぷりである。
眺めながら、なぜこんなに日本人は桜の木を眺めることが当たり前になっているのだろうとふと考えた。
「桜を見る」という行動は日本ではニュースになるほど毎年の恒例行事だ。
他の国では、桜を愛する人はいても、メディアのニュースにまではのぼることはないだろう。
そういえば、と思った。最近読んだ本にこんなことが書いてあったのだ。
「花見」は「予祝」であったのだという。
「予祝」とは「あらかじめお祝いすること」で農耕儀礼として行われることが多い行事の一つだ。
枝いっぱいに咲いた薄いピンク色の花たちが、秋にたわわに実った稲穂を連想させ、桜を楽しむことで秋の豊作をあらかじめお祝いしてしまおうという「予祝」が花見の始まりなのだという。
桜の木の下で酒盛りをし、大騒ぎをするのは、行事の一環なのだそうだ。
その説が正しかどうかはわからないが、なるほどなぁ、と妙に腑に落ちた。
花見が終わって、田植えや、作物の種を蒔き、農作業にいそしむ人たちには、悪天候などのアクシデントに心が折れてしまうこともあるだろう。それを支えたのは、いつまでもいつまでも記憶に残る桜の花ではないだろうか。目の前の作物と同じように「豊作に向かっていく心」を育てる時に、ずっしり咲く桜を思い出せば、少しは心が晴れたのではないだろうか。
そう考えると、日本人にとって花見は大切な行事であり、魂に根付いていてもおかしくはないのだろう。
そして、3月は新しい門出の時期である。大切な人との別れは見事な桜の花の美しさと毎年ともにある。桜と別れを目に焼き付けておきたい。散り際のはかなさを日本人は好む。それも加わって、桜は日本人にとって大切な花になっているのではないだろうか。私が桜を思うとき、花見のにぎやかさよりも、悲しみやさみしさを感じるのは別れの記憶が強いからなのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、どこかの家で夕食の準備をしているのか、おいしそうな香りが漂ってきた。豊作の予祝であるならば、花見を楽しんだことだし、今日はおいしい白米を炊こうと心に決めた。
おにぎりもいいな。
漬物も必要だな。
冷蔵庫の中身を思い出して足りない物を買っていこうとベンチから立ち上がり、堂々と咲き誇る桜に「また来年ね。」と挨拶をして私はひとつ伸びをしてから家路についた。
春が、やってきた。
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