「読書」という授業

エッセイ
みなさんは、「読書」が好きだろうか。

中学高校と、私はとても読書を盛んに推奨する学校に通っていた。

図書室の蔵書はちょっとした地域の図書館並みに揃えられていたし、授業にも「読書」という教科が週に2回あるほど「読書」に力を入れている学校だった。

かといって、生徒が全員、本好きだったかというと、そんなことはない。




学校の思惑とは別に、生徒の本に対する興味はまあまあ。他の学校とかわらなかったと思う。

「読書」の授業は名前の通り、ほとんどが「本を読む」時間だった。

先生が教室に入ってきて、「さあ本を読みますよ」といって、それからシンとして教室で皆が一斉に本を読み始める。

今考えてみると、息を殺すように、ページをめくる音だけが聞こえる教室は一種異様な風景だったかもしれない。



本を読むのが苦痛という生徒はこの授業が「一番嫌いだ」とよくこぼしていた。
反対に本は嫌いだけれど、この授業が一番好きだ、という生徒は「よく眠れるから」と笑っていた。


私はどうであったか、というとこの「読書」の授業はまあまあ好きな方であった。
本は好きだ。


では、なぜ「まあまあ」だったのかというと、読む本が制限されていたためだ。
読む本は図書室にある本、という決まりがあった。読書の時間にあわせて、あらかじめ本を借りておくのだ。

学校の図書室の本なんて、大体がお堅いものばかりであったし、そのころ私が読んでいた本のジャンルは、「推理小説」一択だったので、授業に合わせて読む本がなかなか見つからなかったのである。

唯一、江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」があったので、「怪人20面相」やら、「透明怪人」やらを何度も何度も借りて、しまいには読書の先生に「もう少し違うものを借りないの?」とあきれられた。


機会はあまりなかったが、授業の中で時々薄い小冊子を配られて一斉に読むように指示されることがあった。
先生の趣味だったのか、配布されるほとんどが「宮沢賢治」の短編だった。
「注文の多い料理店」や「ツェねずみ」などが授業中に配られて一斉にみんなで読むのだ。

今も鮮明に記憶にあるのは「よだかの星」だ。
よだかは容姿が醜く不格好なゆえに鳥の仲間から嫌われ、故郷を捨てる。
そして、生きることに絶望して、燃え尽き、青白く燃え上がる「よだかの星」となるという話だ。

小冊子が配布される授業の時、読むのが速い私は、みんなが読み終える間、いつも暇を持て余していた。

けれど、「よだかの星」は違った。

当時、孤独を感じ、自分はなぜ生きているのか自問自答を来る返す日々を過ごしていた。
よだかと私は一緒だった。

「よだかの星」の物語の中に私は自分を見つけたような気持ちになった。

自分と同じ境遇のよだかと自分自身を初めて中心からでなく、客観的にながめていた。

なんて悲しい話だと感じながら、自分もこんな風に美しい青白い星になれたらいいのにと考えた。

共感は同時に癒しも生まれることなのだとその時に初めて知った。

珍しく、読書の授業の間、まじめにこの小冊子を3回読み返した。

文豪と呼ばれる作家の本は、夏目漱石でも川端康成でも森鴎外でもあまりに難解で読むのをあきらめてしまっていた。
読む内容はどこか上から下に流れるように、半ば「世の中は」「世界は」「こうあるべきだ」という命令に近い言葉が並んだものだと勝手に解釈していた。

その中で宮沢賢治が、かたくなな変人女子高生の心にスッと寄り添ってくれた。

あの時間がきっかけで、作家によって作風が違うのだと知った。探せば自分の感性にあった面白い本はあるのだと知った。

それから私は、少しずつ、推理小説以外の本も読みはじめるようになった。

そういう意味で、知らない作家に出会えたあの時間は「読書」という学びの時間だったのだと思う。

それでも、食わず嫌いの私は、なかなか未知の小説には手を出さない。
読んでみて、この人の物語はおもしろい、と思うと、とことんその作家さんの小説を読み漁るが、1度読んで肌にあわないと、どんなに高評価な物語も読みたいと思わないわがままな人間だ。

本屋で平積みされた本を見ながら、手にとるのを躊躇するとき、私は読書の時間を思い出す。


今度書店に行ったら、少し勇気を出して、読んでみようか。

きっとその時には、無理やりにでも読んでみるという経験も視野を広めるのだぞと、高校時代の自分が私の背中をそっと押してくれる気がする。

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