私が図書館で本を借りるためネット予約をしてるいるのを見て、隣の同僚がびっくりしたように言う。
「本なんて、今も読んでるの?」
私もびっくりして反対に訊く。
「え、読まないの?」
質問を質問で返すという、失礼な会話が職場で響いた。
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あとで知ったことだが、文化庁による月に本をどのくらい読むのかという調査があり、その結果、「月に一冊も読まない」が 47.3%,「1,2 冊」が 37.6%,「3,4 冊」が 8.6%,「5,6 冊」と「7 冊以上」がそれぞれ 3.2%なのだそうだ。
だから、同僚の答えは、世間的には普通の回答だったともいえる。
しかし、そのときの私にはかなり驚いた答えだったので、周囲に読書をしているかどうか聞きまわった。
結果、彼と同じ「本を全く読まない」という答えが圧倒的に多かったのである。
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反対に聞かれた。
「月にどのくらい読んでるの?」
「10冊くらい・・・。」
大体驚愕される。
その驚愕されたことに私また驚愕するのであった。
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なぜ私が驚愕するのか、というとその根源は学生時代にある。
前述したが、私が通う学校は読書にとても力を入れていた。
したがって、本を読むのが好きでないという生徒であっても、月に2、3冊を読むことは当たり前。
むしろ義務に近かった。
特に私の仲の良かった友人たちは読書家が多く、ほとんどが月に10冊は読んでいた。
その友人たちに囲まれ、しかたなく2冊程度、読んでいた私は、読書レベルの高い学校内では明らかに落ちこぼれであった。
中でもYちゃんは、学内でも有名な読書家で月に20冊ほどは軽く読破していた。
Yちゃんは休み時間や、興味のない授業の時にも読書していた。読み疲れると初めて顔を上げ、私たちの話の輪に加わった。
笑うときも立てる声はとても静かだった。
彼女から出る話題はもっぱら本の話が中心だったし、成績も優秀だったので、「本の虫」というのは彼女のことをさすのだろうと思った。
博学で、私の聴いたことのない音楽や世界にも精通し、いつも物静かな彼女の読書姿は本当に凛々しく美しく、読書が苦手な私から友達であっても尊敬する憧れの対象でもあった。
彼女が読んでいる本の表紙で私は「遠藤周作」や「村上龍」、「安部公房」などの作家の「名前」を初めて知ることも多かった。
世の中にはたくさんの知らないことがあるのだと、彼女の読書姿を眺めながらいつも思っていたものだ。
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ちなみに、私は中学時代にこっそりとSF小説を書きはじめた。
読書家の彼女に読んでもらおうと、私は意を決して初めての作品を学校に持っていた。
静かに読み終えた彼女の口から出た言葉は「つまらない」だった。
そして私は、筆を折った。
彼女の言葉が重くのしかかり、その後何十年も小説を書こうとも思わなかったのだが、それはまた、別のお話。
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閑話休題。
要するに、純文学を愛する読書家の友人たちに囲まれていたので、私は自分が読書家だと思ったことはなかったのだ。
読書家と名乗るには、「純文学」を何冊も読まなくてはならない、という定義が私の頭の片隅にあった。
しかし、社会に入ってから、その定義は世の中と少し違っていることを知った。
それが冒頭の会話になる。
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「10冊も何の本、読んでるの。」
「推理小説とか、ビジネス書とか・・・。」
「すごいね。」
すごいのか・・と思った。
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私は「本」を読んでいないわけではなかった。
中学高校時代、私はひたすら推理小説を愛していた。
推理小説の中でも探偵が出てくるものを好み、本当にかたっぱしから読みまくった。お小遣いはほとんど推理小説に消えたといっても過言ではない。
明智小五郎、金田一耕助、浅見光彦、エルキュール・ポアロ、エラリー・クイーン、神津恭介、三毛猫ホームズシリーズの片山兄妹などひたすら読みまくった。
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しかし、これは「学校の規定に照らし合わせる」と推理小説は「本」は当たらず、よって「読書」には入らないのだ。
社会に出て、ビジネス書なるものがあることを知った。たくさんの知識が詰め込まれている本で、とても役立つ。
しかし、これも学校の規定から考えると「辞書」や「辞典」に含まれ、「読書」には当たらなかったのだ。
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それが学校の規定であったかどうかといわれると、私の思い違いである可能性は高い。
しかし、「読書とは心を揺さぶり、新たな感情を呼び起こす物語である」という不文律は
思春期に圧倒的なプレッシャーをかけられ、刷り込まれた定義として私の頭の中で確立された。
だから、月に本を何冊も読んでも、私は読書家には当たらないとずっと信じていた。
私は、純文学を読めない自分にコンプレックスを抱いている。
今も、「読書家だね」と褒められると、褒められていいものかと思うときがある。
私の頭に思い浮かぶ「読書家」は、さわやかな風とともにカーテンがたなびく中、凛として本と向き合い、丁寧に作品を読み込んでいくYちゃんの姿だ。
あんな風に、遠藤周作の本を静かにめくる乙女の姿に私は今も憧れている。
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